『軍事上に於ける自動車の価値』 大正期の陸軍は自動車をどう見たか

2020/12/23

データベース 軍事

 


解説

今回紹介するのは、大正十四年に陸軍の将官による公演の記録で、第一次世界大戦が終わり、軍隊の自動車化の気運が高まりつつあった当時の陸軍が軍用自動車の価値をどのように考えていたのかを知る貴重な資料です。

結果論としまして、第二次世界大戦の時点においても完全な自動車化が行えた軍隊というのはアメリカくらいのもので、電撃戦で知られるドイツであっても補給の大部分は馬車に頼っていました。その原因は工業力の欠如と言ってしまえばそれまでなのですが、そもそも自動車という商品自体が民間の競争の中で育てられるものであって、その発達には国民の生活水準全体の向上が不可欠であったということではないかと思います。これは社会主義の大国ソ連が、ロケットを宇宙に飛ばす技術がありながら、民間の乗用車については最後までお粗末な状態だったことからも明らかではないでしょうか。


※掲載に当たり、漢字の一部を平易なものに改めています。

※本文は著作権保護期間を過ぎたものです。


表題

講話「軍事上に於ける自動車の価値」 附 自動車補助法の精神

(大正十四年七月十三日 第百二回講演会に於いて)

陸軍少将 山川良三


本文

 自動車は今日人類社会に於て非常に必要なものになつて居ります。そして之が軍事上何故必要かと申しますれば、御承知の通り戦争をするのには機動力が一番必要であり、速度が大であるもの程必要なることは、丁度海軍に於て速力の優越なる船を有つことが必要であるのと同一であります。そこで先づ之を各部に分けて考へて見たいと思ふのであります。

 第一に偵察に関しまして……偵察と申しますれば敵情に関する偵察と、不動物体に対する偵察と二つに分けることが出来ます。其内で敵情の偵察と申しますと、今までは歩兵辺りは脚力を以て一部の斥候を出し、或は騎兵などは馬力を利用してやります。其兵力に於ても小さいのは二三人から、大きいのになりますと中隊或はそれ以上のものもあるのでございます。之を戦例に徴しますと、永沼挺進隊と云ふのは沙河滞陣中に出発しまして、奉天の西方を通り松花江の鉄橋破壊の目的を以て出ました。是などは鉄橋破壊が一つの目的でもありましたが、尚ほ後方に於ける敵の諸作業を探り如何なる程度まで敵が準備をしたかを見やうとするのも又一つの目的だつたと思ふのであります。是は大距離に向つて大兵を出した一つの例でございます。斯の如く偵察なるものは非常に広汎に亘ります。のみならず、通常二つなり三つなり或はそれ以上の軍が前進しますれば、其前には騎兵団が、騎兵幕を造つて、自分の方は見せないで向ふの方を見やうと云ふので大小各種の斥候を出しながら前進するのでございます。此の騎兵団は何を以て連絡し、並に捜索をするのかと云ひますれば、常に馬力であります、而も其馬力は常に優越なる速度が非常に欲しいのであります。此結果が終には馬力では足りない、機械力に依らなければならぬと云ふので用ひられましたのが自動車と飛行機でございます。どうしても此発動機に依らなければ騎兵の偵察は十分なる功を奏さない、広範囲に於ける敵情捜索と云ふものは出来るものでない又折角苦心して蒐集した敵の状況を報告するにも機械力によるのが宜しいと云ふことになつて来たのであります。殊に或る場合には敵の一部を打破つて中に這入らなければならぬこともある。それには唯単に騎兵ばかりではいけない、之に相当の歩兵を附けなければならぬ、さうすると其歩兵を運ぶにはどうしたら宜いか、今迄は歩兵に 駈歩かけあしをさせたり又は馬車で運んだりしましたが是亦自動車を用ひますと大なる能率を挙げることになるのであります。又歩兵が両方とも附いて来ることになりますと、其歩兵を打潰す為には火砲を附けたくなります。其火砲を運ぶには従前は騎兵砲と申しまして砲手を馬に乗せた砲兵を附けて居ましたが今後は是亦自動車で運ぶ方が宜い場合があります。是等のことがもう一歩進みますと、寧ろ自動車に装甲をして機関銃を附け、或は火砲を以て武装した装甲自動車が宜いではないかと云ふことになり、茲に装甲自動車が現出するに至つたのであります。彼の欧州大戦の初に当りまして、独逸ドイツが一挙白耳義ベルギーを屠つて仏蘭西フランスの北方に迫りました。あの時に装甲自動車、当時は勿論装甲自動車と云ひましても、単に貨車若くは強馬力を有する乗用車に臨時に装甲を施し、之に火器を取付けたと云ふ程度のものでありましたが、それが騎兵の前方に於て、無人の境を行くが如き勢を以て進み大なる奏效をしたのであります。斯の如く敵情を偵察する為には、往々にして武力が必要であり、火力が必要であり、且遠距離に騎兵団を独立行動せしむる為には大なる速力と積載力とを有する輜重が必要である、従つて何としても自動車が必要であることは御分りにならうと思ふのであります。

 次には同じ偵察の内でも地物に関するもの、即ち川を偵察しやう、或は橋を偵察しやう、又は鉄道の偵察をやらう、陣地の偵察をやらう、斯う云ふ場合に即ち敵前にある所のものは勿論或は其外にありましても、自分の見やうと云ふ目的物体が広い区域に亘つてあつた時には、馬力を以てしては十分なる捜索をすることが短時間にはとても出来ないので勢ひ飛行機とか自動車とかが必要になつて参ります。然らばそれに使ふものはどう云ふ自動車であるかと申しますれば、装甲自動車及び自動貨車、又敵に対して余り考慮を要しない所に向つては乗用自動車、サイドカーが使用されるのであります。御承知の如く主として戦闘動作に関します火器は益々精良になり、又一会戦に使ひます兵力は段々殖え其陣地は益々堅固になつて参ります。さうなりますとそれを潰す為には最も発射速度の多い破壊力の大なる重砲が主として必要になつて参ります。機関銃も重軽の二種が出来て参りました、又砲に於きましても段々と発射速度と口径が多くなりますのみならず、自分の方の前進する軍を掩護する為に濃煙を出す所の煙弾と云ふもの及御承知の毒瓦斯ガスを放散する毒瓦斯ガス弾も考案せらるゝに至りまして、益々戦闘は惨烈を極めて参ります。是等の時に際して其死傷を少くし、而も威力の多いものと云ふ目的の為に案出されたのが例のタンク戦車であります。是は英国に於て作つたもので、元来は亜米利加アメリカに於ける農用のキヤタピラーを装甲して之に武装をしたものに過ぎませぬが、其使用が相当に考慮された為に数回良い手柄を立てたやうでございます。其外戦闘動作に使ひます自動車としましては、重い大砲を牽引します所の火砲の牽引自動車、或は飛行機又は航空船などを射落す為の高射砲自動車、それから夜間敵陣地を照らすが為の探照燈自動車で、之等が戦闘に直接参与する自動車の主なるものでありまして、斯の如きものを巧に利用いたしまして、会戦に於て自分の方の兵を掩護するのみならず、一会戦を成るべく短時間に終らせたいと云ふ目的を以て各種の方面に之を利用することを努めて居るのであります。

 次は補給に付きまして……補給と申しますと所謂糧食弾薬の補充でございます。此動作に付きましては自動車の最も必要を感ずる次第で、之に付て少し現在の状況を御話を致しまして御理解を願ひたいと思ふのであります。元来戦争に使用する材料を前方に送りますのは輜重の任務であります。然るに我が国に於きましては此の輜重の制度が、他の歩兵騎兵砲兵工兵等の四兵種の地位に比べまして、非常に遅れて居つたのであります。何故かと申しますと、尚武を以て立つて居ります我が国情が「武士は喰はねど高楊枝」と云ふやうな気風が古来瀰漫びまんして、輜重に任ずると云ふ様なことは進んでやるべきものでないやうに思はれて居つたのであります。諸君も既に御承知でありませうが、輜重兵を嘲る言葉と致しまして「輜重輸卒が兵隊ならば電信柱に花が咲く」と云ふやうなことさへも唱はれたもので是程までに輜重は軍隊としての価値のない詰らないものとされて居つたのであります。それ故今まで輜重のことを研究するものも少いと云ふやうな関係がありまして、常に輜重の編成は遅れて居り、為に日露戦争に於ては非常な不幸を招いたことが数回に及んで居るのであります。其結果、軍の行動を制肘せいちゅうしまして、もつと奏效が大きくなければならぬ所が、比較的小さく終つたことも一再でないのであります。其一例を申上げますと私は日露戦当時には中尉でありまして、近衛師団の輜重の一中隊を連れて第一軍に従ひ、朝鮮から鴨緑江を渡つて鳳凰城を経て遼陽に向つて前進して行きました。其当時遼陽の攻撃将にたけなわであつた。私の中隊は浅田支隊に属しまして太子河の上流を渡り英守屯と云ふ高地上に達しました時は、殆ど遼陽は陥落に近附いていましたが、英守屯は恰も敵の退却路の側方に当つて居ました為に退却する敵兵は非常な勢を以て近衛師団の戦線に突掛つて来る、其の当時近衛師団の持つて居りました砲弾の数は甚だ僅かでありました、之を射盡した暁には一発も弾丸はないのであります。唯あの当時戦利野砲を一大隊集めて居りまして之を土方大隊と云ひ、当時土方少佐が大隊長となつて、百鬼夜行のやうな有様で、馬も居れば牛も居る騾馬も居ると云ふやうに、色々の動物で其戦利野砲を輓曳させ、それに使ふ所の弾丸は、敵が戦場に遺棄してあつた物を我々が拾つて掃除して土方大隊に送り、その戦利野砲大隊だけが射撃をすることが出来たのでありますが、それさへも無限の供給があるのではありませんから、土方戦利野砲大隊も数時間の後には到頭弾丸が盡きて仕舞ひ、唯徒に袖手しゅうしゅ傍観をする外方法はない、我が歩兵は敵の後衛の為に阻止せられて前進することは出来ない、遥か向ふを見ると敵の軍用列車が約五分毎に軍隊を積んでは遼陽方面から奉天に向つて退却して行つた、中には確かに高等司令部が乗つて居ると思はれるやうな列車も幾つも出るのであります、若しもあの時に十分なる砲弾があつて、仮令我が歩兵は前進することが出来なくとも、遼陽から奉天に退却してるあの東清鉄道線路上に弾丸を落下せしむることが出来たならば、必ずあの敵軍の退却は出来なかつたので大部分の敵の軍隊は捕虜となる運命にあつたらうと思はれます。若しあの時に弾丸の補充が出来たとすれば、奉天の会戦も沙河の会戦も出来なかつたであらう、即ちあの時が講話の時期であつたらうと私は思ふ、即ち会戦を短くすると云ふのは此点を云ふのであります。然らば当時後方に弾丸がなかつたかと申しますとそうではなく安東県附近には尚多くの弾丸があつたのでありましたが之を前送する輸送力に乏しかつたのであります。

 斯の如く日露戦に於て苦い経験を嘗めましたが、あの当時に於ける我が軍の行軍の状態はどうであつたかと申しますと、第一軍は鴨緑江と遼陽の間五十里の道を前進しますのに百十日を費して居ります、即ち一日平均〇・四里と云ふ結果になります。第二軍は得利寺海城間三十四里を前進するのに四十六日掛つて居り一日平均〇・七里、最も速いレコードと致しますのは李官村大石橋の間二十里を前進するのに一日平均一里、是が日露戦に於ける一番速い速度でございます。何故そんなに掛るかと申しますと、此部隊が幾ら歩きましても、後方から来ます所の糧食弾薬等の整備補給が付きませぬければ、或る一定の時間を前進しましても、其処で止つて居なければならぬと云ふことになりますから、平均すると今のやうな工合になるのであります。然るに之を今回の欧州大戦に於ける結果と比較しますと、開戦後、陣地戦に移つてからは比較の問題になりませぬから、是は略しまして、あの独仏開戦当初に於ては、独軍は一挙に二百四十キロメートルを追撃しました、それを平均しますと一日平均六里の機動力を出して居り即ち日本の最高レコードに六倍して居る訳であります。若しも我々が満洲或は西比利亜シベリアの方面に於きまして、斯の如き機動力に富んで居る敵軍と見えることがありましたならば、其結果はどうでありませうか、それは云はずとも知れた結果に陥るであらうと思ふのであります、それならば何故其やうに日本の輜重は鈍重であるかと申しますと、詰り積載量が少いから車数が多い、従つて輜重の人馬が非常に多く、だから前に送ると同時に自分の食ふものが多いのであります。それからもう一つは速度が遅く、従つて一日の行程が非常に少い、是が非常に鈍重に陥らしめる理由であります。即ち速度に於ては、日本の輜重は今までは総て一頭の馬を以て輓く輜重車の制式でありましたから一時間の速度は一里に過ぎませぬ。また其車数から申しますと日本のはちよつと明言を憚りますが、茲に諸外国のを挙げて見たいと思ふのであります。千八百六年に於ける仏蘭西フランス軍団の輜重は戦闘員千に対して輜重車十七・七、千八百十三年編成時の普魯西プロイセン軍団の輜重は戦闘員千に対して輜重車十八、千八百七十年の普魯西の輜重は戦闘員千に対して三十九輌、千九百三年に於ける独逸軍団の輜重は戦闘員千に対して四十四・四、即ち諸外国に於ては兵員千に対して五十輌以上のものはないのであります。然るに日本の輜重は確たることは申上げられませぬが、兵員千に対して百以上に及んで居るのであります。それなら日本の軍隊に於ける給与は非常に宜いのかと申しますと、世界一の貧弱なる給与をする、実際或る場合には副食物として梅干一つでやらなければならぬと云ふこともあるのであります。斯程まで切詰めましても、尚ほ斯の如き多くの輜重車を要するので、従つて其運用は十分に行かない、非常に長くなつて、一個師団に要する所の輜重は一列に並びますと殆ど四里強になります、斯る有様では到底敏活なる行動は出来ぬことは知れて居ります、私共が日露戦当時に指揮しました輜重は長さにしまして一六町に及ぶのであります、良好なる道を行進する時がそうでありますから是が少し道が悪くなりますと、車と車との距離が延びますから直ちに一里にも延びるのであります。それを将校二人が指揮するのでありますから迚も十分なことは出来ませぬ、出来さうな筈がない、況や朝鮮内地を通ります時分にはまだ戦争の初でありました為に、茲で申上げると或は差障りがあるかも知れませぬが、野戦病院の軍医さん等が其の輜重を指揮するに余り御慣れにならなかつたから非常に行進困難を感ぜられた、(其当時の野戦病院は一列になりますと二町程の長さになります)為に之を私に指揮を委ねられた。且それより前に近衛師団の輜重第一中隊の半部は済州島の附近で難船をしましてまだ到着しませぬが他の半中隊は私と共に同時に上陸して居りますから、それをも一緒に私に指揮をしろと云ふのであります。路の良い平地で並びますと両方を合しますと一里余になる筈でありますが実際に於きましては、一体どれ位の長さになるかと地図によつて測りました所が丁度二里半に及んで居りました、それを殆ど朝から晩まで馳ずり廻つてやつと纒めることが出来たのであります。さう云ふやうな景況でありますから、困難をしながら其行進里程は一向捗りません。其当時に於きましては、まだ鉄砲にしましても大砲にしましても其発射速度は余り多くはありませぬ、又武器の種類も左程沢山ではないのであります。然るに現今にては機関銃も益々精良になる、火砲も益々良くなつて来る、且戦争が科学化して来まして、或は信号する為に花火の弾丸が出来るとか、先程申しましたやうに煙を出すとか、或は涙をこぼさせる催涙弾が出来るとか、飛行機を射つ為には、ちよつと物に触ると直に爆発すると云ふ信管所謂鋭敏信管を有つ所の弾丸が出来ると云ふやうな工合で、弾丸の種類だけでも非常に多くなつて居ります。又砲の種類にしても或は歩兵隊にまで大砲が附く、或は高射砲が出来ると云ふ工合に部隊の数も殖えます、従つて人馬共に多くなります。日露戦当時に於て一師団の要する糧秣の量は三十幾噸に過ぎなかつたものが、現在に於ては倍数に近いものになつて居ります、従つて余程敏活に之を送らなければ、到底戦列部隊として十分の給与を得せしむることは出来ないのであります。それからもう一つは、日露戦当時に於きましては、一会戦に集まる所の兵力は今程多くなかつたので、其為に一道を一師団に配当することが出来たのであります。然るに現在に於きましてもつと沢山の兵隊を集めなければならぬことになつて居りますから、どうじても一道路上を二師団相重畳して行軍しなければならぬ場合が出て来るのであります。さうすると前の方の師団の給与は次に進む師団の直後に続行して居る輜重から持つて来ることになりますから輜重の行進里程が、非常に上る訳になる、是では十分の給与の出来ないことは明かであります。斯のような結果、輜重の速度を増さなければならぬことになりまして、それには一馬ではいけない、二馬にしやうと云ふので、二馬輓の輜重を研究し、さうして速度は一時間一里半、或は一里四分の一位出るやうにしやうと計画をして居ります。所が是には又馬の数を考へなければなりません。日本にあります所の馬の総数は約百五十万頭、是が欧州大戦の関係から大分屠殺されまして、今の所百十万頭位と思ひます。此内の半分は雌で是は至る所で使へると云ふ訳に行きませぬ、又其内で約半分位は非常に老齢であるか或は非常に若いか、即ち五つ以下のものであるか、或は十五以上のものであると云ふやうな状態でありますから、本当に使ひ得る馬の数は少いのであります。現日露戦の時には、三十八年の初頭になりますと、馬が足らなくなりまして、臨時に洋馬を買入れたことがあります。之が日本の軍隊で洋馬を使つた初でありますが、斯のやうな苦境まで嘗めなければならぬ、若しあの時に馬がなかつたならば、戦闘の遂行は難しかつたかも知れない。そのやうな有様でありますから輜重の二馬式をやらうとしても、是はなかなか全部の輜重に之を利用することは出来ませぬ、従つて何等か之に代るべきものを他に求めなければならぬ、是が又自動貨車を利用することの必要な理由の一つであります。

 此補給と云ふことに付きましてもう一つ申上げて置きたいのは、躍進距離を大ならしむることであります。躍進と申しますと、或る線に軍が展開して敵と会戦いたします、其処で勝利を得て其場で以て敵を全滅することが出来たならば問題はないが、仮に敵が是はいけないと思つて退却を始めたならば直ちに之に追撃をやります。何十里でも急追して敵をして踏止つて軍隊を整理し又は抵抗をする暇のないやうに追撃に次くに追撃を以てして、再び立つ能はざらしむるのがよいのであります。然るに我軍の補給続かざる等の為に斯の如き大追撃を行ふことが出来なくて其行進力が鈍りますと敵は得たり賢こしと其軍隊を整頓し或は増援隊を得たりして再び大勢を盛り返そうと抵抗を試むるに至ります。そこで次の会戦が起るのでありますが此の前の会戦地から次の会戦地迄の距離を躍進距離と云つて居るのであります、即ち大なる躍進を為し得る如く戦闘部隊も後方勤務に任ずる者も努力せねばなりませんが、就中平坦の輸送の大小が此距離の長短に大なる関係を有して居るのであります。彼の明治三十八年二月の奉天戦に於きまして先づ沙河で敵の第一陣地を奪取してから、奉天に於ける最後の陣地を撃破する迄に多大の弾丸を使用しました為奉天陥落以後の追撃戦に我軍の弾丸が非常に手薄となり、鉄嶺附近に行きました時には、追撃の威力と云ふものは殆んど失せて居つたのであります。縦ひ当時弾丸糧食が後方に堆積してあつたとしても当時の輜重ではあの後追撃を続行する程度は蓋し大なるものではなかつたらうと思はれます。即ち輜重及兵站の推進力(輸送力)が足らぬことに帰着するのであります。故に今後は地形の道路の許す限り自動貨車を有利に使用しまして、兵站の輸送力に弾力を有せしめて置きまして、一朝追撃前進に移りました節には大躍進を行はしめ得る如く作戦を指導することが肝要であります。

 次に工事に付きまして……工事の中で自動車に関係のありますものは道路橋梁鉄道のやうなものでございます。道路工事の発達することは今の各兵種の交通を十分にするばかりでなしに、自動車を十分に利用することが出来る為に非常に効能があります。此ことは日露戦の当時に於きましても、露西亜の方は後方の道路を整理するのに非常に力を盡しております、あれだけ日本から強く攻撃をされて居つたにも拘らず、各部隊は相当に完全な退却が出来たのも一つは道路の整備が宜かつた為であります。若しもあの時に道路の工事が十分でなく、或は橋梁が薄弱であつたならば、あれだけの退却は出来なかつたと思ひます。是は退却戦を例に採りましたけれども、追撃をする場合にもさうであります、成るべく道路工事を迅速にやることは軍の機動力を増す上に於て非常に有利と思はれます、之等の用途に充つる自動車は溝を掘る自動車、砂利を運搬する自動車、ローラー車、散水車、砕石車等であります。

 次は衛生勤務に付きまして……此衛生勤務に於ては、今まで殆ど速度の速いものは使つて居りませんでした。即ち日露戦頃までは衛生隊の一部に一馬輓の患者輸送車なるものを設け、之に担架を二つ吊りまして重傷者を二人載せ、さうして徒歩の兵が輓馬を馭して行進するのであります、然も一師団に百数十輌よりありません。所が日露戦の実験に依りますと、射撃効力が段々発達するに連れて、一時に出来る負傷者の数が非常に多くなります。之を成るべく短時間に後方の病院に収容せねば、弾丸に依る死傷よりも、寧ろ戦場で仆れて居つて雨雪或は暑気の為に凍傷、或は凍死其他の疾病の為に死ぬものが多くなつて参ります。従つて成るべく速く収容することが必要であるので、あの時には私共の指揮して居ました糧食又は弾薬を輸送すべき輜重車に臨時に藁蒲団を積みまして、それに負傷者を載せて帰つたことが度々あつたのであります。是が衛生勤務に成るべく速い速度を有つて居るものを使はなければならぬと云ふ一つの良い証拠になるのであります。のみならずX光線の発達は、銃砲弾に依る負傷の治療に効果を及ぼしたことは御承知の通りでありますが、其X光線の機械を各部隊に備附けることは出来ない、即ち軍或はそれ以上の大部隊に完全なるものを備附けて置きまして、必要に応じて各部で使ふやうにしなければならぬ、之にはどうしても速度の速いものに載せる必要があります。又一方伝染病のことを考へますと、消毒車の如きもの、或は細菌を検査する所の細菌検査車等も、常に沢山な物を備へて置くことも出来ないから、結局速い速度の車に備附け巡回的に臨時必要なる方面に使用することが必要である。又外科手術の如き、或は歯科治療の如きものも同じ理由に依り速い速度が必要になつて来まして、是等のものが欧州大戦に於て、総て軍の後方に整備され、必要な時期に其求に応ずることになつたのであります。

 要するに此機動力は昔から要求して居る所でありまして、所謂「疾きことは風の如し」と云ふ有様は、古今を通じての原則であらうと思はれるのであります。従つて自動車は此目的の為に最も必要なものになりました、殊に貨物車或は乗用車自動二輪車は応用の範囲も最も広うございます。唯茲に考慮しなければならぬことは、道路及び交通網の発達と云ふことゝ、国内自動車工業の発達と、操縦技術の優秀とが我が国に於て最も必要な付帯条件であらうと思ふのであります。

 次に軍馬と自動車との能力を比較して見たいと思ひます。先づ捜索に任ずる所の騎兵、或は伝令に従事する所の騎兵、それと自動車、オートバイとの比較であります。距離に於ては自動二輪車は恰も騎兵の二倍に相当すると思ふのであります。即ち騎兵は一日に百キロを行きますことは余程優秀な馬でなければ出来ない、さうしてそれも或る期間を限つては出来ませうけれども、それ以上はもつと良い馬でなければ駄目で一般の騎兵には要求出来ないと私は思ふ。之に反して、一日二百キロメートルをオートバにて行くことは左程困難なことではないのであります。現に過日大阪のアマチュアの方々が大阪東京間のオートバイ速乗競技会をやることになりまして、私は其計画及び実施に参与いたしました。其結果から申しましても、素人の方々の集まりであつても、一日に百七八十キロは決して困難でない、さすれば相当の道であれば一日二百キロを行くことは毎日続けましても大した問題ではないのであります。之に要する経費を比較いたしますと馬の方は一頭の購入費を五百円と見積り、二年間之を調教しなければならぬ、それの馬糧代七百二十円、それから馬具代百五十円と見ましても初度の経費が千三百七十円ばかりになります。之に対してオートバイの方は約千円くらいのもので宜しからうと思ひますが、維持費の方になりますと、馬糧代の外に薬物費とか馬具の修繕費と云ふものも要りますが、之等は至つて少額でありますから先ず馬糧代の三百六十円丈を計上することと致しますが、オートバイの方は、燃料、モビール其他の消耗品費、修繕費等を合しますと、七百八十円ばかりになり、丁度馬の倍程度要するやうであります。併し是は能率に於てオートバイの方が略ゝ倍になつて居りますから、之で相殺することが出来ると思ふのであります。唯茲に問題になりますのは、今の所日本の馬匹は年々十分の一補充をします。即ち百頭の定数を有つて居る中隊でありますと、一年に十頭宛新馬を入れ、十頭の廃役馬を出して居る、九十頭が古馬で十頭が新馬と云ふのでやつて居りますから、丁度馬の使い得る年限と云ふものは調教期間を除きまして九年と云ふことになります。所がオートバイの方は私の見ます所に依りますと軍用の兵器として長くとも三年以上は使へぬやうに思ひます。さうすると丁度是が三分の一で此点がオートバイの弱点ではあるまいかと思ひます。

 次には機関銃隊の馬に付て自動車と比較して見たいと思ひます。装甲自動車になりますと二挺の機関銃を附けたのが、今の所最も有力であらうと思ふのであります。此二挺と云ふことを一つの単位として考へて見ますと、馬で運ぶ所の騎兵機関銃の如きは二挺に要する費用を合計いたしますと、小隊の乗馬から銃長の乗馬、機関銃の駄馬、弾薬駄馬、それから其馬の代金から補充から馬糧から、総て前申したやうな工合に計算しますと、総計三万円余になります。之に対して装甲自動車一両は二万五千円位で出来ます、若しもこれを多数に作るならば二万円で出来るであらうと思ひます。次は維持費になりますと、騎兵の機関銃馬の方は、馬糧代だけでも一年に八千二百円余となり、自動車は燃料、モビール、修繕費等を入れて一輌二千円余である、即ち殆ど四分の一になつて居ります。それから能率から申しますと、騎兵の機関銃は平均二十里、八十キロ走ることはちよつと困難でありますが、装甲自動車は百六十キロ行くことは決して困難ではない、即ち能率に於て倍以上の力を有つて居ると思ふ。又保続年限にしますと、機関銃隊の馬は先程申しましたやうに調教期間を除きまして十年、装甲自動車は五年と見まして、是は半分でありますが、初の費用も少く又保続費も四分の一になつて居るのでありますから、保続年限の少い位ひ何でもないことゝなります。即ち是が十年分の比較を執つて見ますと、馬の方が二十二万五千円余に対し、装甲自動車の方は七万円余になり、其差は十五万五千円余であります。

 次に大砲を牽く所謂牽引車に付て比較して御覧に入れたいと思ふのでありますが此牽引の為には日本ではキヤタピラーを附けました速度の極めて遅い牽引車を使つて居ります、そして之とてもまだ確定的のものではない、即ち堅い道に出た場合に今少し大速度を出して、道路以外の畑地に這入つた時に初めてキヤタピラーを使つて歩きたい、斯う云ふ企図を以て今研究中であります、従つて現在のものを以て比較することは余り十分でないと思ひましたので茲には挙げぬことに致しました。此点に付きましては将来各位の御知恵を拝借しなければならぬことも或は多いであらうと思ふのでありますが、仏蘭西のサンシヤモン会社の作りました或る一つのタンクには、キヤタピラーの外に上下の出来る車輪を有て居ましてキヤタピラーを使用すれば道路外に於ても一時間八キロ乃至九キロ位の速度を以て行進し、道路に出ましたならば車輪を下して二十五キロ乃至三十キロの速度を以て行進することが出来る車があります。其車は此間編成改正になりました自動車学校に一、二輌ありますから、いつでも向ふに御出でになりますれば見られます。斯のやうな式のものが将来火砲を牽引するのにも便利であらうかと思ふのであります。

 次には先刻申しました輜重の能率を高める自動貨車に付て比較したいと思ひます。輜重車は一車輌の定量は五十貫に過ぎず、速度は一時間四キロより出ませぬ。然るに自動貨車は四百貫を積むことが出来ますし、速度は一時間十六キロは出すことが出来ます。其能率を比較しますと、輜重車三十二輌に対する自動貨車一輌の比になるのでありますのみならず、此輜重車が三十二輌になりますと、唯之を輸卒ばかりに任せて置く訳に行きませぬ、之に分隊長が少なくとも二人は要ります。即ち乗馬が二頭附かなければならぬ、又人に於きましても、三車輌に一人の予備卒を附けますと、是が十人要ることになりまして、非常に余計なものが要る。今予備卒と云ふやうな人間の方は別問題としまして、馬だけで比較しますと、合計の経費に於て、馬の方は二万二千円に対して自動車は一万円と云ふやうな比較になるのであります。是は初度費ですが、一年間の維持費に於きましては一万二千円余に対して、自動車の方は千六百円余。是が保続費になりますと、馬の方の十年に対し自動車の方は五年でありますから、十年分を総合して比較いたしますと、馬の方が十四万四千円余、之に対して自動車の方が三万六千円余、此差十万七千円程は自動車を利用すると有利になるのであります。

 斯の如く騎兵に使ひましても、或は歩兵に、或は輜重に使ひましても自動車は非常に有利な数字が現れる訳でありますが、次には自動車と馬の利害に付て研究して見たいと思ふのであります。先ず馬の利益とするものは何であるかと申しますと、不整地難路等の通過が容易でございます。又能率は挙がりませぬが初度の費用が少いから、小さい計画の下に着手し易い。次には馬に乗りますと乗ると云ふことは苦労である代りに衛生上に利益である。其次は情愛で馬は人が行きますと鼻を鳴したり或は口を開て食物を要求したり又は手をなめたりして親しみの情を現はしますからどうも情愛に富んで居ります。其他或る場合には之を殺して食ふことも出来ると云ふやうな利益があります。之に反して害は、至る所糞便を垂れ流す、蝿などがたかつて非常に不潔を極める、是の害がひどいと思ひます。其次は御存知でありませうが、狂奔と申しまして馬が或る物体を見て驚きますと馭者の欲せない処に駆て行きます。又先程申しましたやうに少からざる時日を調教に費します、山野を馳駆し得る程度までには少くとも一年半は調教が必要である、輓くと云ふだけの砲兵馬の如きでも一年を要し、輜重の馬でも六ヶ月を要する有様であります。

 自動車の方の利益はと申しますと、速度と積載力が優越であります、且休みましたならば殆ど費用は掛りませぬ、又動きましても殆ど疲労を覚えませぬ。次に形式の改良を短時日の間に於て行ふことが出来ます。馬の方は大体の血種を変へるのにどうじても百年掛りますが、自動車の改良は数年で出来ます。又馬を殖やしたいと思つても急には生んでは呉れませぬけれども、自動車の方は、ちよつと賃銀を多くするとか、工場の設備を致しますれば、数年の中に制作輌数を殖やすことが出来ます。其他馬には流行病がありますが、自動車にはこれがありませぬ。斯う云ふ点が自動車の最も利益とする所であらうと思ひます。次に害はどうであるかと云ふと、御承知の通り道路を破壊すること及び砂塵を立てることが非常に多い、又衝突することが多くあります。馬にも衝突はないとは限りませぬが、自動車の衝突程激しい結果を及ぼすことはなからうと思ふのであります。是等が自動車の害とする所であります。

 次に自動車を発達するのにはどうしたら宜いであらうか、之に関する私の愚見を申し上げて置きたいと思ひますが、第一に自動車は廉くしなければならぬと思ふのであります。第二にゴム燃料其他の油類を廉くすること、第三には多少平時に於て不利を被るべき軍用車に適するやうな高級車に対しては補助金を出すことが必要と思ふのであります。もう一つは内地製の自動車を発達させて部品の交換を十分にすることが必要と思ふ、此四つが発達の上に於て直接の必要なる事項であります。次に間接の事では税金を軽減して戴きたい。殊に軍用車に対しては税金を取ることは無理であらうと思ひます。又是は私が現役を退いてから知つたことでありますが、税金の二重取があるさうであります、それは今まで使つて居つた車を使用できなくなつて新しい車に変へますると、前の車に対して払つてあつた税金はそれなりになつて、次に買つた車に対しては又税金を払はなければならぬと云ふ規定ださうであります、どうも国家が税の二重取りをするやうに妙に私は思ひます。それから次にはオーナードライバーが沢山出来るやうにしたい、併ながら是は現今の取締規則の上から発達せぬのであります。元来自動車を運転すると云ふことは大して六ヶむつかしいことではないと思ひます、殊に心身の発達して居る人であるならば、換言しますれば、頭と手と足と此三つの連絡が敏感である人ならば自動車の運転は決して困難なことはなく極めて愉快の事であります。然るに今日オーナードライブの発達しないのは、運転手経験、運転手免許状等の言葉が何だか商売人らしくなつて来る、運転手の免許状を警視庁に取りに行くのも工合が悪いからと云ふので立派な技術を有する人々も警視庁の受験を嫌ふ人が沢山にあります。是が為自動車を所有せば是非運転手を傭入れなければならぬことになり、維持費が多額となるのであります。

 次は道路橋梁とか交通網の改良、是は申すまでもありませぬ。次に運転手を使ふには、優秀な運転手でなければ駄目だと思ひます、然るに現在運転手の多くの者は、其技量に於きましても、人格に於きましても、往々低級な人がある為に、自動車の発達に非常な害を及ぼして居るやうに思はれます。其次には交通の整理取締の普及、交通道徳の発達、斯う云ふことが間接に非常に影響するやうに思はれます。又自動車知識の普及と共に自動車協会と云ふやうなものを発達させまして、悪ブローカーをして発展の余地がないやうにすることが必要であらうと思ひます。是等は自動車の発達の為に此機を利用しまして蛇足を加へた次第でございます。

 斯の如くしてどうか自動車を発達させたいと思ひますが、なかなか思ふやうに行きませぬ。私は大正五年から九年頃まで陸軍省に居つたのでありますが其当時自動車を発達させたいと云ふので、諸外国殊に英仏独辺りの補助法に基礎を置きまして日本の補助法を立案し、大正七年の議会に提出して協賛を経たのであります。其時の補助法に付て一言申述べ其精神を明らかにしたいと思ふのであります。抑々戦時最も多くの数を得たいと思ひますのは堅牢なる貨車であります。貨車は先程申しました通り歩兵でも時として砲兵でも運びます、のみならず通常は後方に居りまして糧食弾薬其他軍需品一切を輸送し非常に利用せられる範囲が多いのであります。然るに民間に於きましては、貨車は寧ろ乗用車よりも少い有様でありますから、どうしても之を多く発達させたいと云ふのが元来の補助法の精神であります。殊に内地製の物が欲しいと云ふ点から現在の補助法が製造に重きを置いて居ります、是は後に説明申上げますが、以上述べました二つの点が補助法其ものゝの精神でございます。

 保護自動車とは如何なる車であるかと申しますれば、有効積載量四分の三仏噸以上一仏噸未満の自動貨車、之を甲種と云ひ、有効積載量一仏噸以上一仏噸半未満の自動貨車、之が乙種、一仏噸半以上が丙種。貨車は此の三種類になつて居りますが、前の甲種と同様なものに改造し得る物、即ち之を応用自動車と名付けまして、それを丁種と云ひ、乙種と同様な応用自動車を戊種、また丙種と同様な応用自動車に対して己種と云ふ六種類に分れた訳であります。さうして是等に対しまして製造補助金、購買補助金、維持補助金と云ふやうなものを三種類出して居ります。

 其概略を申上げますと、各種の補助金を通計いたしまして、甲種の自動車には四千五百円、丙種の自動車には七千円になつて居ります。一番少い丁種の自動車になりましても三千七百五十円。即ち補助金の合計は一番少いもので三千七百五十円、一番多いものが七千円の範囲内で補助をされる訳であります。

 次に其構造の概略はどうであるかと云ふと、重量は甲種及び丁種に於て八百キロ乃至千八百キロなければならぬ、乙種及び戊種が千キロ乃至二千キロ、丙種及び己種が千五百キロ乃至二千五百キロと云ふやうな範囲である。それから力は自動車の有効積載量に相当する貨物を積載しまして、普通の道路に於て第一速度を以て傾斜六分の一までの斜坂を上ることが出来なければならぬ。それから自動車の旋回し得べき最小回転半径が平地に於て内方の前車輪で測りまして七メートル以下の小さい径を有つて廻ることが出来なければならぬ。燃料槽は十時間以上の容量を有つて居なければならぬ。速度は四キロから二十キロまでの速度を出し得るやうにせなければならぬ、それを三種類乃至四種類の速度で以て区分されて居ります。まだ其外にも色々ありますが、主なるものは右のやうなものであります。今度はその手続でありますが、製造者は初に此車を以て軍用保護自動車の資格を欲しいと云ふことを願い出ますとそれに対して検査がありまして、良ければ検定証書が下ります。さうするとそれに依つて製造補助金請求書を出します、それから後は購買者に其補助金、使用者には維持補助金と云ふ様に逐次保護の条件に移るのでございます。此の製造補助金を貰ひました車を保護自動車と申しまして、是には籍を拵へて陸軍省で籍を保管して居ります、さうして其車に対しては保護表章を貼附けまして、外にはM型の白い印を附けます。御承知でもありませうが東京乗合自動車会社で使用して居ますウーズリー車は己種の保護自動車になつて居り、それには今のM型が附いて居ります。さうして斯う云ふ自動車を陸軍省が戦時若くは事変の際に買上げやうと云ふ場合には、其当時の保管状態と使つた年月に依つて補償金額を算定して買上げるのであります。只で取るのではないのであります。是が補助法の概略でございます。

 次に内地自動車製造業の過去の状態を少し申上げたいと思ひます。斯の如く保護自動車の規定を制定し奨励を致しましたのは大正七年でありましたが、其当時は欧州戦争が始まつて二三年経過した所で日本の景気が最も宜い折でありました。従つて此挙があることを聞いて、各自動車に志ある人々が続々陸軍省に参りました。其主なるものは東京に於きまして、東京瓦斯電気工業株式会社、京都に於きまして奥村電機商会、大阪では日本兵機及び安田工場、神戸では川崎造船所及び三菱造船所と云ふやうなものでありまして、其後各社では熱心に製造に従事せられましたが、技術の程度が進んで居りませぬのと、今までの経験がない為に初め大阪砲兵工廠へ各社の技師或は技手職工等を集めまして、種々指導はしたのでありますけれども十分に行きませぬ中に大正九年三月になつたのであります。所があの時に財界の景況が非常な変動を起しました為に、殆ど今までやつて居られた所の諸会社が経済上の打撃に合つて、事業を中止するの已むを得ぬやう状態になつたのであります。さうして単り踏止つて今尚継続して居られるのは東京瓦斯電気会社だけでございます。其瓦斯電気会社も此頃余程悲境に陥つて居ると云ふ話であります。其後各社が悲惨な状態を見られたにも拘らず、石川島造船所に於ては国家的事業でもあるし、海軍の軍縮と云ふやうな関係もあるから、一つ自動車をやらうと云ふのでウーズリーを盛んに製造されて、是は余程良い結果に向いて居ると云ふことを聞いて居ります。尚ほ其外に、最近に許可があつたのでありますが、長崎村の(池袋の西)快進社でダツト車を拵へましたが、是はまだ創業の所で、なかなか十分な景況には達して居りませぬ。それから今まで出ました所の保護自動車の数をちよつと申しますと、大正七年に十五輌位出ると予定して居りましたが実際出ましたのは四輌、八年には十台位出ると思つて居りましたのが三輌、其次には百台位と思つたのが二十二輌、段々少くなりまして大正十年には二十八輌、大正十一年には三輌、一二年には一六輌、やつと一三年に於きまして八十四輌と云ふ数に達したのであります。今までのそれ等の物を総て通計致しましても百五六十よりないのであります。是が保護自動車の概況であります。

 翻つて此保護自動車にならない普通の自動車即ち乗用車とか、或はオートバイの法を見ますと、三菱造船所に於ては嘗て伊太利のフイアツトをモデルとして、御作りになつたことがあり十数台出来たと聞いて居ります、又其一台を陸軍省でも買つて見ました。また梁瀬やなせ自動車会社に於ても何か一種類おやりになり、夫れを十数台御作りになつたと云ふことも聞いて居りますが、是も十分なる成績を収めることが出来ませぬで其儘になつて居ります。唯今の所では石川島造船所に於てウーズリーを若干作つて居られます、是等は補助金がない関係上十分なる発達を致しませぬ。それから白楊社に於きましてはライトカーではありますが、オートモと申しますものを作つて居りますが、之もまだ十分に発達するに至りませず、漸く先月で四十台位売行があつたと云ふ位であります。併し是等は最近の制作でありますから将来は如何になりますか、私共陰ながら其発達を祈り、又大に尽力もして居る所でございます。オートバイの方を見ますと、一昨年頃から五反田にあります立正社でムサシノと云ふ一馬力半の小さいオートバイを御作りになり陸軍でも二台程買つて居りますが其将来は未だ断言する程度に達して居りませぬ、従て是亦十分なる発達をせぬと云ふ有様であります。

 然るに之に反しまして、外国製自動車の輸入状態はどうかと申しますと、大正元年に於きまして、自動車及び部分品の総計の金額が八九万四千円位のものでありましたのが、大正十三年度に於ける輸入高が二千百十八万即ち二千二百万円万円に垂々とする状況で殆ど日本に於ける重要輸入品と云つて差支へないと思ふのであります。斯の如く非常に発達して居るにも拘らず内地製が今申したやうな微々たる有様であることは、如何なる理由に依るかと色々研究して見ますと、それには資金が少いとか、或は材料に乏しいとか、優良な職工が少いとか、其の外諸種の理由はありませうが、最も大きな理由は需要者が少いことであると思ひます。其需要者が少いと云ふ原因は何かと申しますと、それは初めて日本で生れた車でありますから其車の生命は分らぬ、或は経済上有利であるか、不利であるか分らぬと云ふやうな不明な従つて不安心の点もありませうが、それよりも最も有力な原因は日本製=粗悪と云ふ念が一番あるやうに思ふのであります、舶来品は良い、どうも日本製はと云ふ頭が上下を通じてあるやうに思ひます。どうか此風だけは除きたいと思つて居ります。決して日本の工業は左程に劣つて居るものでないと思ひます。数日前の新聞に鉛筆は同価格のものであるならば、外国品よりも日本製が良いと云ふことが出て居りました、自動車も追々はさうならうと思ひます。現に白楊社のオートモの如きは小型ではありますが、一台僅かに千二百八十円で補助金なくして、供給が出来る程度になつて居る。又ダツトの如き保護自動車になりますと、値が五千円、それに対して政府の補助金が合計四千五百円でありますから、需要者からは五百円より出費しない計算になります。又其車を月に五台買取つて呉れるならば四千五百円に割引する、さうすれば補助金と同額となるから結局無料である。然るに其車を使用する人は少ない。どうも其理由が分らない、或は保存上に懸念を持つて居るのではないかと一年間無料修繕をすると云ふ条件を附けても、それでもまだ駄目である、詰り毛嫌をする、其毛嫌の元は何かと云ふと買ふ人に自動車の知識が乏しい、そこへ持つて来て悪運転手、悪ブローカーが、あの車は駄目だあんなものを買つては屹度損すると焚付ける、成程さうかと云つて懐を押へて帰られる点にあると思ふ、斯う云ふことが余程内地製を萎靡させて居る主なる所であらうと思ふのであります。

 最後に外国に於ける補助金はどうであるかと云ふことに付て申上げたいと思ひますが、英国に於ける最近のものが手に入りませぬので、茲では仏蘭西に於ける保護自動車の種類、保護金額位ひを申し上げまして御参考に供したいと思ひます。仏蘭西に於きましては四輪起動即ちフオアホイールドライブを奨励して居ります、それには二十噸と十五噸との二つで、二十噸の方に於きましては購買補助金に六千フラン、維持補助金を三年間毎年三千フラン、合計しまして一万五千フラン、比較的少いのでございます、十五噸の方に対しましては、購買補助金五千フラン、維持補助金が矢張り三年間二千五百フラン、合計が一万二千五百フラン。次に七噸半の貨車がございます、是は何に使ふかと申しますと、タンクは先程申しましたやうに、道路上をのろのろ歩いて居つては間に合はないから此貨車に載せまして戦場まで持つて参ります、此貨車に対しまして購買補助金三千フラン、維持補助金として三年間千五百フラン宛合計七千五百フラン、それから農業用の牽引車、是はキヤタピラーであります、是は主として火砲を牽引する為に、之に対しまして重と軽と二種類ありますが、重砲の方が購買補助が二千五百フラン、維持補助が一千フラン、合計五千五百フラン。軽の方は購買補助が千六百フラン、維持補助が八百フラン、合計四千フラン。之を我が国に比較して見ますと、ちよつと多いやうに見えますが、二十銭が一フランですから、四千フランでも八百円となり、到底吾国の多額なるには及びません。

 要するに今少しく軍事上に於ける自動車の価値と云ふことに考慮をしまして、も少し自動車製造工業の発達を図りたいと云ふのが私の希望でございます。実のないことを長々と申まして御聞苦しいことであつたらうと思ひます、是を以て終と致します。